赤穂民報
関西福祉大学リレーコラム・高校野球と「共感」(8月27日)
先日まで甲子園球場で熱戦が繰り広げられていました。なぜ、私たちは高校野球に魅力を覚えるのでしょうか。
高校生の成長途上の伸びやかでバネのような身体の動き。その動きとともに、場面場面で見せる恥じらいのある初々しさや恐れを知らない大胆さ。その両方が激しく入れ替わる若さあふれる表情。そんな選手たちが、本人ですら思いもよらない力を発揮して大逆転劇を見せてくれたとき、私は大きな感動を覚えます。何か別のことに気をとられたりせず、その“現場”に居合わせることができたとき、私はその選手たちと共に戦っている気持ちになっている自分に気づきます。
今回から「ケアの精神」の「共感」についてお話しします。高校野球に魅力を覚えるという私の経験をもとに、「共感」を(1)現場に居合わせる(2)共に戦っている気持ちという点から考えてみたいと思います。
まず、(1)の現場に居合わせるというのは、時間と空間を共有すると言い換えることができるでしょう。テレビの画面であっても、あれほどの大きな感動を覚えるのですから、高く飛んでいく白球と青空、切り裂くような打撃音と大きな歓声、焼けつくような暑さと汗の臭いなど、諸感覚をつかう甲子園球場という特別な空間で、共に時間を過ごしたならば、より大きな感情の動きを感じることでしょう。
次に(2)の共に戦っている気持ちですが、炎天下、多くの観衆を前に戦っているのは選手たちであって、私ではありません。しかしながら、(1)の現場に居合わせることで、まるで私自身が球場のマウンドやバッターボックスに立っている選手のすぐ傍にいる感覚をもち、緊張のあまり手に汗握る思いをするのです。
自分とは違う別の人の気持ちを想像することによって、自分も共に戦っているような気持ちになります。それが、「共感」しているということです。そして、この「共感」についても、双方向性を忘れないことが重要です。なぜなら、あくまでも想像しているに過ぎない以上、はずれる可能性についても考えておく必要があるからです。
私にとっての高校野球の魅力は、選手の姿に「共感する」ことを通して、私の中にいくばくか残っている未知の可能性を感じることができるところではないかと考えています。(市橋真奈美・発達教育学部講師)
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