赤穂民報

関西福祉大学リレーコラム・第3回―公共と世界(2月25日)

 私は、東京オリンピックが開催された1年前の昭和38年に、埼玉県で生まれました。
 私が生まれる前から、当たり前ですが、「世界」は存在していました。その「世界」に私は生まれ、いま、こうして生きて暮らしています。しかし、いずれ私に死が訪れます。私が生きている“この世界”は、私の死と伴に消滅します。でも、「世界」は存続し続けます。
 少々小難しく感じるかもしれませんが、これが、私たちが生きている現実です。こう考えると、人が生まれるということは、この「世界」に新しい世界が誕生する、ということになります。そして、人が亡くなるとは、この「世界」に存在している一つの世界が消滅した、ということになります。
 さて、今回、公共をテーマにこのコラムを書いています。公共には「みんなに関わる事柄」といった意味があります。みんなに関わる事柄の中で、最も根本にあるのが、私の誕生の前から存在し、私の死後も存続し続ける「世界」です。
 人はいずれ死を迎えます。死とは、これまで自分が得たもの(家族、業績、財産、そしてこの世界)を、すべて失うことを意味します。だから、恐ろしいものです。この恐怖から永遠のいのちを求める気持ちが生まれるのでしょう。永遠のいのちがあるかどうかは分かりません。個人的にはないと思っています。だから死を怖く感じます。
 しかし、最近思うことがあります。それは、この世に生を受け、一つの世界を生きたということは、「世界」という大きな事業(なんと表現したらいいのか分かりません)の創造に参加しているのではないか、ということです。永遠のいのちではなくとも、私は「世界」という大きく永い営みに、存在を刻んでいます。ここでは、有名無名はまったく関係ありません。いろいろな生が「世界」に彩りを与えます。私の生もその一つかもしれません。
 そう考えると、少しだけ死の恐怖は和らぐように、私には感じられます。みなさんはいかがでしょうか。(中村剛・社会福祉学部教授)

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