赤穂民報
関福大リレーコラム・子育てを哲学する―(2)なぜ、子どもを可愛く思えないのか(3月3日)
【固有と所有といった観点から】
前回、親は子どもから「愛くるしさ」「かけがえのなさ」「尊さ」「厳かさ」といった“恵み”を贈られる、といった話をしました。では逆に、親が子どもに最初に贈るものは何でしょうか。それは“名前”だと思います。この“名前”には、子どもに対する親の最初の「愛情」が詰まっています。
ここでいう「愛情」とは、「“他ならないあなた”は私たちにとって“特別に大切な存在”」という思い・気持ちのことです。“他ならないあなた”とは“固有な存在”という意味です。よって、愛情とは、“固有な存在”を特別に大切と思う気持ちのことです。
親は、その愛情が故に子どもの幸せを願います。だから「いい成績を取って欲しい」「いい学校に入って欲しい」「親の言うことを聞いて欲しい」と思います。こうしたこと自体は悪いことではありません。しかし、「愛情」が子に対する「親の願望・欲望」に変質すると、愛情はその本質を失い、「親のエゴ」になってしまいます。このとき、子どもは固有な存在であることを止め、「こういう子ども(例えば、成績優秀な子ども、サッカーが上手な子ども………)を持ちたい」と願う親の所有物に格下げされてしまいます。
親のエゴ(自己中心性)が強くなると、親の期待に応えられない子どもは可愛く思えなくなります。そうした親の気持ちを子どもは察し、子どもの気持ちが親から離れていきます。そうすると、さらに子どもを可愛く思えなくなります。
なぜ、子どもを可愛く思えなくなるのか。理由はさまざま考えられます。その理由の1つとして考えられることが、今回お話した、固有な存在である子どもを、まるで自分(親)の所有物のように思ってしまうことです。
子どもは親の所有物ではありません。親とは別の人生を歩んでいる固有な存在であり、その人生の主人公です。だから、意見も言えば反抗もします。しかし、それは固有な存在であることの“証し”であり、尊いことです。別の人生を歩んでいる固有な存在が、私たちの“かけがえのない子ども”として与えられています。このことに気づいたとき、子どもが私たち親に贈ってくれている「愛くるしさ」「かけがえのなさ」「尊さ」「厳かさ」といった“恵み”を、再び感じることができるのではないでしょうか。(中村剛・社会福祉学部 学部長)
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