赤穂民報

山鹿素行のお話(11)後記(10月12日)

 これまで10回にわたり、山鹿素行という人物について、ご紹介してきましたが、皆さん!少しはご理解いただけましたでしょうか。
 山鹿素行の教えは浅野家三公や大石内蔵助に影響を与え、塩田開発や寺社の再建など赤穂藩の治世にまで及んでいます。
 むかし西浜があった新田の光浄寺では毎年8月に浅野三公のご恩に報うべくお祭りを、地域あげて今日に至るまで継承していることや、また東浜の田淵邸は城主が訪れる度に使用された立派なお部屋を今も大切に維持していることなどは、そうした証ではないでしょうか。
 しかしながら、この偉大な山鹿素行を知る具体的な遺物は銅像と大石神社にある山鹿素行神社しかこの赤穂には残っていません。大正15年5月当地を訪れた山縣治郎18代兵庫県知事が銅像を見て武士道が生きている町と感動したからこそ、赤穂高校を建設(昭和3年11月に本丸跡に完成)してくれたものの、昭和46年に赤穂城が国の史跡に指定されるやいなや、あの西洋のお城のような校舎は木端微塵に破壊され、代わりに御崎に新校舎が建ち(昭和56年)、その中に旧校舎の正門の一部がひっそりと残されたのみです。
 戦後、GHQが日本の君臣、忠義を大切にした道徳教育をターゲットに日本の思想改革を占領政策の柱にしたことから、「忠臣蔵」の赤穂は特にそのやり玉に挙げられ言論統制が厳しかったと聞きます。実際私が3年間通った赤穂高校では山鹿素行の「や」の字ほども教わる事はなかったように記憶しています。
 今回この連載を通じ、9月の多久先生の講演を含め色々な方々からご指導を頂いたのですが、その中で特に大事な点は、山鹿素行の最高傑作ともいえる『中朝事実』が赤穂で書かれたことです。山鹿素行は賑やかな江戸から遠く離れた、三方山で囲われ、開けた南は海というある意味閉塞感満載の田舎町の赤穂に配流され、失意の中にいたのですが、その内に領民の優しさや信心深さ、そして気高さに気づくわけです。それまで江戸が学問や文化・経済の中心だと思っていた素行は、赤穂が山から採れる果樹や獣肉や薪などの豊富なこと、また南の海からも海産物やお塩などがふんだんにとれ、そうした豊かな恵みのベースに神社仏閣が多く、天照大御神などの高祖神を崇め、親鸞や日蓮等が説く仏道にも熱心である風土に刺激を受けたようです。 
 山鹿素行の名著であり日本学の最高傑作といわれる『中朝事実』はまちがいなく、この赤穂の風光明媚で気候温暖な風土、そして赤穂に脈々と流れる歴史文化が生んだものだと思います。これを機会に赤穂人としての誇りを再度意識して頂ければ幸いです。(完)

(本丸跡に赤穂高校があった昭和初期の赤穂城跡。左端には、現在の場所に移設される前の山鹿素行像がある=山鹿素行研究会提供)

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