赤穂民報

同行ルポ・被災地で広がる「格差」(5月21日)

 東日本大震災から2カ月以上が経ち、新聞やテレビでは仮設住宅の建設など「復興」へ向けた被災地報道の割合が徐々に増えてきた。その現状を確かめようと、民間ボランティアとして宮城県内で2度の救援活動を実施した坂越の嘉陽田(かよだ)征信さん(47)と現地を訪ねた。
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 5月15日正午過ぎ、仙台駅に着いた我々を出迎えてくれたのは、加藤久さん(55)=東京都世田谷区=と森勝義さん(71)=仙台市泉区=。
 加藤さんは宮城県で生まれ育ち、かつて日本代表主将として活躍した元サッカー選手。後進の指導、テレビ解説など多忙な仕事の合間を縫って故郷の救援に尽くしている。かき研究の世界的権威で赤穂出身の森さん=東北大名誉教授=は仙台市に本部がある「世界かき学会」の会長。津波で深刻な被害を受けた養殖業界の立て直しに東奔西走の毎日を送っている。
 嘉陽田さんは阪神淡路大震災で被災した親戚を全国各地から来神したボランティアに助けられた以降、「恩義を返したい」と飲食店経営の強みを生かし、水害のあった佐用などで炊き出しを行ってきた。
 この度も4月上旬と中旬の2回、食材を満載したトラックに調理師仲間を乗せて宮城入り。「温かいものを食べたのは震災後初めて」という被災者にラーメン、雑煮など計5000食を振る舞った。土地勘のない嘉陽田さんに代わって現地コーディネートを担ったのが加藤さんと森さんだ。
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 今回の3人の目的は、今後の支援活動の方針と手法を見定めるための情報収集。救援に訪れた各避難所の状況変化を確認するため、加藤さんの運転する車で牡鹿半島へ向かった。
 「かなり道路がよくなったですね」と加藤さん。それでも、沿岸部に近づくにつれ、カーナビの画面には冠水や土砂崩れで「通行止め」を示すマークがいくつも見える。
 東北最大の流域面積を誇る北上川に沿って下流へ。あの日、壁のような津波が遡ったという。川のそばにある大川小学校は全校児童108人のうち74人が亡くなるか行方不明になった。かつての市街地は海岸から数キロ先の山すそに突き当たるまで、鉄筋造の建物がいくつか残るのみ。その2階屋上に大型バスが乗っかっている。
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 言葉を失ったまま到着したのが石巻市雄勝町(おがつちょう)水浜地区。高さ20メートルの津波で9割近くの家屋が流された。「地震が来たら津波」との昔からの教えでいち早く避難したものの、住民380人のうち1人が亡くなり8人が行方不明になっている。
 20数年前に閉鎖され、間もなく取り壊し予定だった平屋建ての旧保育所が避難所。集落で最も高い場所にあり、辛うじて残った。子どもを持つ世帯は代替通学先の関係で50キロ以上内陸の町へ二次避難し、現在は高齢者を中心に約60人が身を寄せ合う。市中心部へ行くには寸断箇所を避けて大きく迂回しなければならず、その距離約30キロ。電気の復旧はゴールデンウィーク明けまでかかり、水道は「3日前にやっと出た」という。
 主婦の秋山勝子さん(67)が「この前も来てくれた赤穂の人でしょ?」と笑顔で駆け寄った。「保険が下りなかったのよ」と近況を口にしたときは一瞬悲しそうな表情になったが、すぐに明るく振る舞った。「みんなで『泣かないようにしよう』って約束したから。前を向いていこうねって」。
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 この日は計4カ所を訪問。豊富な物資に恵まれた大規模な避難所がある一方、「みんなが被災者。ぜいたくは言えない」とぎりぎりの暮らしで辛抱して生き延びている人たちがいた。「当面の物資は行き届いている」とする行政とのギャップ。嘉陽田さんは「日が経つほど、その差が大きくなっている気がする」と嘆く。
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 嘉陽田さんたちは翌日、森さんの長女で臨床心理士の佐藤葉子さん(40)と、その友人で専門学校講師の渡部芳美さん(45)に会った。2人はそれぞれ避難所に足を運び、被災者の心のケア、きめ細かい物資支援を行っている。「裁縫だけが生きがいなのに」と落ち込んでいた主婦にミシンを届けたときは一家全員が万歳して喜んでくれたという。
 ここでの話し合いでも、避難所格差が課題として挙げられた。
 渡部さんの話によると、食事や物資の行き渡り具合、生活環境は避難所ごとで大きく異なり、2カ月過ぎた今でもパンと缶詰しか配給されていないところも。人手不足、ニーズ把握の不徹底など理由はさまざまだが、「在庫がありながら被災者に届かない」という状況が現実にあるという。
 5人は「今後はそうした“置き去りの避難所”へのピンポイントな支援が必要」との見解で一致。可能な範囲で連携して活動することを申し合わせた。
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 視察を終えて、「必要なところへ必要なものをできるだけ早く届ける」「自分にできることを実践する」ことが求められていると改めて感じた嘉陽田さん。周囲からは「交通費をかけて赤穂から行くよりも、その分食べ物を買って送ってあげる方が効率がよいのでは」と言われたこともあるが、「単に生き延びるための“食糧”やったら活力は生まれへん。あったかいもんを腹に入れて、笑顔になってほしい」と話す。
 「ライフラインが復旧したら、あとは地元の料理人が店を再開するはず。炊き出しに行けるのも次が最後のチャンスかな」と宮城から帰った翌日、さっそく次回支援に向けた準備を始めた。6月中旬の北上を目標に必要な食材や物資を集めるために走り回っている。

(9割近い家屋が流失した石巻市雄勝町水浜地区。写真の左側から高さ20メートルの津波が押し寄せた)

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