赤穂民報

倉敷へ移築100年、柴原家住宅か(6月9日)

 西浜塩田最大の塩業者で赤穂藩蔵元も務めた塩屋村の柴原家から大正元年に解体移築されたとみられる住居が岡山県倉敷市内に現存することがわかった。移築先は中国銀行の前身にあたる金融機関を創業した尾崎(おざき)家。1世紀経った今も子孫が大切に家屋を守り継いでいる。
 尾崎家住宅は昭和26年に倉敷市に編入合併するまで帯江(おびえ)村だった加須山(かすやま)地区にある。長屋門と白漆喰塀に囲まれた約850坪の敷地に茶室を備えた2階建て主屋、蔵などが建つ。数年前に大学教授が実施した調査で主屋の屋根裏から「大正元年一二月一二日建立 尾崎生三」などと書かれた棟札が見つかった。
 『帯江村史』などによると、加須山はかつて海に浮かぶ小島だった。元和4年(1618)に尾崎家の先祖が干拓し、6年後の寛永元年に拝領。庭で10メートル近い樹高を茂らせているクロガネモチは住居を構えたときに植えたと伝わる。生三(せいぞう)氏(1869−1951)は2代前の主人で、後に他行と合併して中国銀行となる倉敷商業銀行を設立し、村議も務めた。
 現在、加須山の住居に暮らしているのは生三氏の孫の竹内祥子さん(75)夫妻。竹内さんは祖父から、「この家は庭のマツと一緒に赤穂から移したもの」と聞かされていたという。それ以上詳しいことは耳にしておらず元の所有者は不詳だったが、竹内さんの知人がこのほど建物の写真を赤穂市教委に照会。明治初期に描かれた柴原家住宅の絵と酷似しており、さらに調査を進めたところ、屋根瓦に「赤穂郡 瓦大忠 眞殿村」の刻字があることが判明した。また、生三氏の三男に柴原家から嫁いでいることもわかった。
 柴原家は元禄10年(1697)に塩屋村へ移住。江戸から明治にかけて家業の酒造業から豪商へ成長し、塩田開発で利潤を得た。大庄屋として村政も担当し、飢饉や災害時には大量の米、麦、義援金を拠出。荒神社の大鳥居、塩屋東の祭り屋台などを寄進したほか、貧民救済の炊き出しも行っていたと記録されている。
 明治26年(1893)には赤穂郡内で2位の所得を誇ったが、29年に設立した赤穂商業銀行が経営不振に陥り、39年に破産。現在の向集会所がある辺りを中心に屋敷があったことがわかっているが、家屋がいつ、どのように処分されたかは不明だ。
 移築から今年でちょうど100年。尾崎家では「できるだけ当初の姿のまま残したい」と板戸、ふすまなどの建具も移築当時のものを大切に使ってきた。かつて酒を染み込ませた布で毎日磨かれたという柱や天井は重厚なつやを出している。決定的な証拠はないものの、これだけの規模の屋敷が大正元年に赤穂から移築された事実を考えると、柴原家住宅をおいて他に考えにくい。
 「祖父の代から大事にしてきた家。その由来を知ることは感慨深いものがあります」と竹内さん。しかし、老朽化が進む家屋の維持は年々困難になっているという。赤穂市教委は「柴原家時代と現在の間取り図を比較してみたい。今後もし、移築経緯や両家の関係を示す文書が見つかれば興味深い」と話している。

(大正元年に柴原家から移築されたとみられる尾崎家住宅=後方の小高い森が加須山)

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