忠臣蔵のふるさと・播州赤穂の地域紙「赤穂民報」のニュースサイト
文字の大きさ

赤穂民報


  1. トップページ
  2. 文化・歴史
  3. 記事詳細

山鹿素行のお話(10)素行先生の教えを全うした赤穂義士

 2019年10月05日 
 流謫生活も保科正之が死去したことで延宝3年(1675年)ようやく赦免され、山鹿素行はその年の8月、約10年ぶりに江戸に帰りました。浅野長直の後を継いだ長友はこの年の1月に33歳の若さで亡くなっており、9歳の長矩(後の内匠頭)が浅野家を継ぎました。
 そこで素行は長直・長友親子から受けた恩を返そうと、気を込めて赤穂で内蔵助を教えたように、長矩が住む江戸浅野屋敷まで足しげく通い、自身が亡くなるまでの約10年間、長矩を薫陶教育しました。そういう中で長矩が17歳の時初めて勅使饗応役を勤めることがありましたが、素行の助言もあり見事にその大役を果たしております。
 このように、素行の教えや考えは長矩や内蔵助やその家臣に確実に受け継がれ、特に長矩の無念の死に対し、大石内蔵助ら四十七士がとった行動は正に素行学のお手本のようでした。
 それは、当時の喧嘩両成敗の法に照らし片落ちの処罰に対し浅野家の面目を立てる方策は、お家断絶をさせられた浅野家の再興であり、別の一つは浅野遺臣として主君の仇吉良上野介を討って、天下にその義を公然と披露することであったのです。
 大石らの義挙が成功するまでの行動を仔細にみれば、山鹿流兵法の特長である用意周到の実践を遺憾なく発揮していることがわかります。お家再興について大石は関係寺院の僧侶や桂昌院及び権力者の柳沢吉保の家老などにも可能な限りの伝手を頼り裏面工作をし、表からは目付けの荒木、榊原たちにも願ってひたすらお家再興のために尽力をしています。それでもその願いが叶わなかった場合は、武士道の義を貫くために吉良上野介を討たねばならないと決意する内蔵助の思考は方法論としては二つに別れていても、素行の説く「一向二裏」の同時作戦だったことが兵法上からみて明らかに推察できます。
 後に史上に名高い元禄快挙を成し遂げた大石ら四十七士の泉岳寺までの引き揚げの作法は、勿論山鹿流兵法に拠ったものでありました。
<前の記事


掲載紙面(PDF):
2019年10月5日号(2342号) 4面 (7,984,206byte)
 (PDFファイルを閲覧するにはこちらからAdobe Readerを入手してください。)


コメントを書く

お名前 (必須。ペンネーム可):

メールアドレス (任意入力 表示されません):

内容 (必須入力):

※コメントは投稿内容を赤穂民報社において確認の上、表示します。
投稿ルールを遵守できる方のみご投稿ください。
今週のイベント・催し
23
(月)
 
24
(火)
25
(水)
26
(木)
27
(金)
 
28
(土)
 
29
(日)

最新のコメント

  • 丸山サンビーチ駐車場 また過大徴収←赤穂民報(11/27)
  • 丸山サンビーチ駐車場 また過大徴収←吉良上野介(11/27)
  • 丸山サンビーチ駐車場 また過大徴収←赤穂民報(11/27)

各種お申込み

以下より各お申込み、資料請求フォームにリンクしています。ご活用下さい。

スマホサイトQRコード

スマホ用URLをメールでお知らせ!
e-mail(半角入力)


ドメイン指定受信をされている方は「@ako-minpo.jp」を指定してください。

閉じる
中村唯心堂 中道工務店 矢野防水工業 赤穂メモリアルホール 野中砂子土地区画整理組合 花岳寺 兵庫県警
閉じる
中村唯心堂 中道工務店 矢野防水工業 赤穂メモリアルホール 野中砂子土地区画整理組合 花岳寺 兵庫県警