2016年07月23日
◆砂本秀義さん(85)=東京都大田区
座席に乗り込んだ。吹き流しを確認すると、風向きは良いようだった。
「引け」の号令があった。私はみなが引いてくれる歩数を数え始めた。10歩、20歩と数えたとき、これまでの連中はここらへんで「放せ」だったのに、まだ止まらない。私はドキドキし始めた。
30歩あまりでやっと「放せ」がかかった。スウーっと機体がスタートした。その弾みで操縦桿を少し引いてしまった。視界は真っ白で、まったく何も見えない。操縦桿を引いたせいか、異様に上昇しているように思った私は、とっさに操縦桿を押した。今度は急降下するように感じ、反射的にまた引いた。
そのとき、富田先輩から聞いた話が頭に浮かんだ。グライダーが急降下で地面に突っ込むと、主翼がドスン、バサッと崩れるぐらいで機体の損傷は割に少ないが、尾部から失墜すると機体がめちゃくちゃに全壊するということだった。
私は慌ててほんの少し操縦桿を押した。すると、機体はどすんと着地した。地上滑走はほとんどなかった。
駆け足で教官の前に行き、敬礼して報告した。
「操縦桿を引いたなあ」
「よくわかりません」と答えると、「阿呆、しっかりせい」とやられた。
あとで富田先輩に「どうしたら視界が見えるようになるのですか」と質問した。すると、「50回くらい乗らないと見えるようにならないよ」と言われた。なにしろ機体の初速は秒速約80メートル。運動神経の伝導が初速についていけないのだ、と説明された。見えるようになるのは、まだまだ先のことだと思った。
その後も練習は続いたが、私たちの学年から出征する前に終戦を迎えた。
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滑空機を使った訓練は「航空予備兵力の整備と心身の鍛練」を目的に昭和12年ごろから帝国飛行協会(後の大日本飛行協会)と文部省が推奨して始まった。当初は「おおむね16、17歳以上」を訓練対象としていたが、勤労動員で上級生が抜けた昭和19年以降は中等学校低学年と国民学校高等科の生徒たちが駆り出された。訓練で使われた滑空機の多くは終戦後に廃棄された。
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砂本秀義さんは昭和5年、坂越生まれ。赤穂高校から日本体育大学へ進み、卒業後は駒場東邦中学校・高等学校教諭を経て東邦大学医学部で勤務した。4年前、戦時中の体験談をまとめた書籍『戦争中の少年の赤穂義士祭』を刊行。滑空機訓練のほかにも興味深い逸話が綴られている。赤穂市立図書館に蔵書あり。
[ 戦後七十年語り継ぐ ]
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掲載紙面(PDF):
2016年7月23日(2193号)4面 (12,163,203byte)
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