2016年09月03日
この方法で、少しずつだが、作られる塩の量が増えていったので、為吉は、その塩を売ることを始めた。為吉は、塩の入った箱を背負い、あちこちの村々で売り歩いた。為吉の塩は、美味しいと評判になり、また来てくれと頼まれるようにまでなってきた。そこで漁師仲間にも、手伝ってもらって、さらに、販売先を増やしていった。
そうなると、一人で作っていては、間に合わないので、為吉は、大勢の人を使って塩を作り始めていった。塩が売れれば売れるほど、お金がどんどん入ってくるので、砂浜を買い取り、さらに大きな塩田を作っていった。
新しい塩田には、海岸から水路を作り、満潮の時には、海の水が、その水路を通って塩田の近くまで上がってくるようにした。上がってきた海水をためておいて、そこから塩田に海水を撒けるようにした。撒いた海水が、すぐ、砂の中に、吸い込まれてしまわないように粘土を敷き詰めるように工夫した。夏の日差しでは、海水がどんどん蒸発してくれるので、濃い海水がすぐできた。その海水を大きな鍋を使って、一日中、火を絶やさないように、ぐらぐらと煮詰め続けた。すると、真っ白い塩が出来るようになったのだ。
海の水を塩田まで運んでくる人。海水を砂の上に勢いよく撒いたり、その砂を集めて濃い塩水を作る人、そして、何時間もその塩水をグラグラと煮立たせる人と仕事を分けることにした。だから大勢の人が必要だった。
その頃になると、美味しい塩だという評判が評判を呼び。遠くからも、塩がほしいと言ってくるようになってきた。
この千種川の川辺には、赤い穂のなる「ベニタデ」という草がたくさん生えていたことから、この辺りのことを、「赤い穂の村」と言われ、今では「赤穂」と呼ばれていた。そして、ここでとれる塩のことを「赤穂の塩」と呼ばれるようになり、美味しい塩であると評判が上がり、遠くの国からも買いに来るようになってきた。(作・切り絵=村杉創夢)
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▽村杉創夢=30歳ごろから趣味の切り絵を始め、歳時記や風景を題材に通算40回の個展を開催。自宅に「村杉きりえギャラリー」を開設し、オリジナルの物語に切り絵を組み合わせた「創作むかしばなし」の制作にも取り組む。東京都町田市在住(赤穂市出身)、71歳。
[ 赤穂の昔話 ]
掲載紙面(PDF):
2016年9月3日(2198号)3面 (12,900,066byte)
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