赤穂民報

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創作きりえ昔話・潮吹き穴と赤穂の塩(十一・最終話)

2016年11月26日

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 為吉は、こんなお金持ちになったのは、自分一人の力ではない。たまたま、潮吹き穴のことを聞いて、洞窟の入り口を塞いでいた岩を取り除いただけだ。
 昔のように、洞窟から潮を吹くようになったら、瀬戸の海の塩が戻っただけだ。その海の水を使って塩を作ったけれども、村の人々が、塩田で、厳しくて苦しい仕事を、頑張ってやってくれたおかげだ。だから、赤穂の塩は、赤穂の人たちみんなのものなのだと感謝している。
 為吉が、潮吹き穴を復活させ、瀬戸の海に塩を戻し、魚や貝がとれるようにしただけでなく、塩田を作り、塩作りで村を豊かにし、村の人たちに働くところを作ったこと。
 船溜まりを作ったり、大きな屋敷を作って、他の国の人を呼び集めたこと。千種川の洪水を防ぐ堤防を作った事。山に木を植えて、緑豊かな土地にしたこと。
 村の人たちは、為吉のことを、「塩屋敷の為吉さん」とか「塩屋の為吉さん」と呼ぶようになり、いつまでも慕われていった。
 為吉が毎日毎日、三年もかけて運び出し、遠浅の海岸に積み上げていった岩が、今では、一つの大きな山になって、海岸から少し離れたところに島みたいに飛び出している。潮が引いた時には、この岩まで歩いて行ける。しかし、満ちてくると、周りは、海に戻ってしまう。この島のことは、「為吉の島」と言って、魚がたくさん集まる場所になっている。
 このあと、ずーっと「潮吹き穴」のおかげで、瀬戸の海では、海の水から塩がなくなることはないそうだ。魚はいっぱいいるし、塩もたくさんとれる。だから、赤穂の人たちは、いまでも幸せいっぱいなのである。
 めでたし、めでたし。(完)
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《連載を終えて》
 早いものです。もう最終回です。無事ここまで来られて、大変満足しています。
 赤穂を離れて50年を過ぎました。赤穂はあくまでも「私の故郷」として、過ごしてまいりました。2014年に当時市長だった豆田正明君から「第1回東京あこうのつどい」に出席するよう誘われました。豆田君は赤穂高校でのクラスメイト。断り切れないので出席し、赤穂とのつながりが復活してきました。
 私は、趣味で「切り絵」を作っていましたが、定年になり、東京都町田市に「きりえギャラリー」を開設しました。その中のテーマの一つに昔話の創作があります。主に、町田の昔話を作ってまいりました。赤穂のために役立つことはないかと考えた時に、故郷赤穂を舞台の昔話を作ったらいいのではと、ひらめきました。
 赤穂といえば、赤穂義士です。これは、当たり前すぎます。そうすると、やはり「塩」でしょう。塩をメインにお話を作り、昔、子供のころ眺めた塩田風景を思い出しながら、絵を作り、切り絵にしていきました。出来上がったお話を、どこで発表するかというので、思い切って赤穂民報さんにお手紙を書いてお願いしてみました。赤穂民報さんの思いがけない快諾を得て、一年間の連載が実現いたしました。
 赤穂市民の方が、どんな感想を持つか、心配していました。残念ながら、全く反応が見られませんでした。受け入れてもらえたのかどうかもわかりませんでした。そこが少し残念なところであります。
 いずれにしても、こんな形ではありますが、故郷赤穂に帰ってきた気がいたしております。一年間の愛読ありがとうございました。村杉創夢
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 ▽村杉創夢=30歳ごろから趣味の切り絵を始め、歳時記や風景を題材に通算40回の個展を開催。自宅に「村杉きりえギャラリー」を開設し、オリジナルの物語に切り絵を組み合わせた「創作むかしばなし」の制作にも取り組む。東京都町田市在住(赤穂市出身)、72歳。


赤穂の昔話 ]

掲載紙面(PDF):

2016年11月26日(2208号)4面 (11,031,633byte)


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