赤穂民報

メニュー 検索

三木露風と交流あった赤穂生まれの俳優

2024年08月15日

 たつの市龍野町の「霞城館・矢野勘治記念館」で開催中の企画展「三木露風と交流のあった人々」に、赤穂生まれの俳優、河原侃二(かわら・かんじ)が露風に宛てた絵はがきが展示されている。

 河原は1897年(明治30)に赤穂町に生まれた(群馬県前橋市生まれとする説もあるが、父が明治33年まで赤穂で教員をしていた記録がある)。旧制前橋中在学中に詩誌『侏儒』(こびと)を創刊。同校の先輩にあたる萩原朔太郎をはじめ、北原白秋や室生犀星などそうそうたる顔ぶれが参加したという。その後、新聞記者を経て新劇の舞台俳優になったという異色の経歴を持っている。

 映画の世界に進出したのは29歳ごろから。戦前は松竹蒲田と松竹大船、戦後は大映東京の作品に数多く出演した。主役よりも脇役が多かったものの、渋い役どころを演じる名バイプレイヤーとして一定の評価を受けていたようだ。また、写真家や版画家としての顔も持っていた。相生の郷土史家、小林楓村が刊行した郷土文化誌『播磨』の表紙に河原の版画が使われたこともある。

 今展は、同館が所蔵する露風宛ての絵はがき約240通の中から一部を紹介。「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰、劇作家の小山内薫、詩人の高村光太郎、露風が作詞した赤穂小学校の校歌を作曲した近衛秀麿などが差し出したはがきが並ぶ。同館の義則敏彦専門員は「露風の交友の広さがうかがえる」と話す。

 河原からのはがきは大正12年の暑中見舞状で、群馬県の名勝・赤城大沼の絵はがきを当時露風が滞在していた北海道の修道院宛てに送ったもの。「上州赤城山大洞 青木屋にて」と記した上で「去る七日から活動写真の撮影でこちらに来て居ります。『山語らず』と云ふ静かな叙情詩のやうな映画を撮影中です。」などと近況を知らせている。差出日は「八月二十二日」となっており、関東大震災の10日前。震災の影響でお蔵入りになったのだろうか、河原の出演作リストに『山語らず』という映画は見当たらない。二人がどういった関係だったかはわからないが、はがきは「奥さまにも呉々もよろしく御伝言の程を願ひます。」と結ばれており、妻も含めて交友があったことがうかがえる。


河原侃二が三木露風に宛てて送った絵葉書の文面=記念館提供

河原侃二が三木露風に宛てて送った絵葉書の文面=記念館提供


 前述の『播磨』で、河原は「河原翠城のお孫さん」と紹介されている。翠城は幕末の赤穂藩で起きた文久事件(1862年)で反対勢力の藩士らに追い詰められて自害した赤穂藩の儒学者。河原は同誌への寄稿で「歴史、殊に仇討問題等は、その当時に生きた当事者間のみで批判され、省察される事柄で、それさえお互いに感情論となつて真実を後世に伝えることは、おそらく出来ますまい。その当時に生まれていなかつた後世の血縁者が一方的文献によつて可否を論じたとて、単なる水掛論に終るだけです」と述べている。同誌の表紙に提供した版画の絵柄は「見ざる、聞かざる、言わざる」で、自身の気持ちを代弁させたかのようだ。


河原の版画が使われた『播磨』の表紙

河原の版画が使われた『播磨』の表紙


 河原は1974年に東京都内の病院で死去した。76歳だった。河原に関する資料は乏しいが、『脇役本 増補文庫版』の著書がある濱田研吾氏のサイトに人物紹介がある。

 企画展は9月1日(日)まで午前9時半〜午後5時(入館は4時半まで)。月曜と8月13・14日は休館(8月12日は開館)。入館料200円(小〜大学生、65歳以上は100円)。Tel0791・63・2900
赤穂出身の俳優、河原侃二の肖像写真=河原の著書『ヴェス単作画実技』から引用

赤穂出身の俳優、河原侃二の肖像写真=河原の著書『ヴェス単作画実技』から引用



文化・歴史 ]


赤穂市で土地をお探しの方

コメント

※コメントは投稿内容を赤穂民報社において確認の上、表示します。
投稿ルールを遵守できる方のみご投稿ください。

取材依頼・情報提供 | 個人情報保護方針 | 著作権 | リンク | 会社概要