2011年06月25日
亡父が編集した「赤穂時事新聞」を手に感慨に浸る山本明さん
赤穂市内の旧家土蔵に残されていた明治後期から昭和前期にかけての古新聞に、戦前の赤穂で発行され、もはや現存しないと思われていたローカル紙が含まれていたことがこのほどわかった。市立図書館にも保管されておらず、当時の街の情勢を知る上で貴重な史料と言えそうだ。
見つかったローカル紙は、「赤穂時事新聞」と「赤穂タイムス」の2紙で、昭和13年1月から2月にかけて発行された計3号分。尾崎で飲食店を経営する冨原利行さん(68)が明治25年2月10日付の「大阪朝日新聞」など日刊紙6紙21号分と合わせて事務所で保管していた。
冨原さんによると、これらの古新聞は今から30年ほど前、尾崎宮本町に当時住んでいた会社役員、松本昭子さん(82)=本水尾町=から譲り受けた。松本さんは塩田地主の家柄で、見つかった新聞は自宅土蔵に祖母の代からあるタンスの中敷きとして使われていた。松本さんも冨原さんも「昔のことが書いてあり、おもしろそう」と捨てなかった。ページの一部に破れや欠損はあるものの、十分読むことができる。
このうち、「赤穂時事新聞」はコピーを含めても紙面が残っていないとされていた。第14号(1月13日付)の1面トップ記事は、前年末に難航した塩田労使交渉の経過を振り返る「案じられた東西両浜の『かべむしり』円満解決」。「かべむしり」とは塩田の奉公人が年の瀬に来年働きに行く家を決める日のことで、よりかかった壁をむしりながら仲間と相談するところから、こう呼ばれた(佐伯隆治編「播州赤穂方言集」)。第16号(2月13日付)は「躍進坂越町の新庁舎開庁式」と発行日の2日前にあった坂越町役場のオープンを報じている。
「編集人」は後に赤穂市社会福祉協議会の初代理事長を務めた山本長兵衛氏、「発行兼印刷人」は市議会議長となった深澤一郎氏。月3回発行だったようで、逆算すれば昭和12年9月ごろの創刊と思われる。その年は4月に赤穂町、塩屋村、尾崎村、新浜村の1町3村が合併し、7月には日中戦争が勃発するなど市内外で激動の一年だった。
長兵衛氏の長男で元毎日新聞記者の明さん(79)=加里屋=は、「父は姫路師範学校(現神戸大学)を卒業後、神戸新聞と愛媛県内の新聞社で記者をしていた。そのときの経験を活かして地域紙を立ち上げたのでは」と推測する。「子どものころ、新聞配達や赤穂から満州へ出征している人たちへ発送するための封筒詰めを手伝った記憶がある。紙面は自宅にも一枚も残っていない。もう二度と見ることはできないと思っていた」と感慨深げ。「来年4月がちょうど亡父の50回忌。墓前に報告したい」と話している。
[ 街ネタ ]
掲載紙面(PDF):
2011年6月25日(1949号)1面 (9,362,395byte)
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