2008年05月11日
再建された遙拝所で行われた神事
石柱などを新調した遙拝所。足下の拝石は創建時からのものをそのまま使っている
児島高徳の遺徳を偲んだ墓前祭=船岡園の墓所で
茶臼山頂近くにある高徳の義父・和田範長一族の墓所にも参拝
南朝の忠臣として知られる児島高徳の墓前祭が11日、坂越・船岡園の墓所で行われた。地元有志の手でこのほど再建した「遥拝所」も披露され、参列者約20人が高徳を祀る奈良・吉野にある船岡神社の方角に向かってかしわ手を打った。
墓前祭は高徳の祥月にちなんで毎年5月に行われ、今年も「児島高徳卿顕彰会」の会員らが参列した。墓所前での法要に続いて北東80メートルほどにある遥拝所で神事。しめ縄を結んだ真新しい石柱の前に旧家の奥藤家が代々管理している三種の神器を並べ、参列者らが玉串を奉納した。
遥拝所は、顕彰会の前身にあたる「児島贈従三位旧跡保存会」が大正3年に設置。当時は400人を超える会員数を誇ったが、近年は参拝者が減少し、廃れかかっていた。
保存会誕生から昨年で満100年だったのを契機に「誇るべき郷土の財産を後世に伝えよう」と顕彰会世話人代表の春野輝雄さん(76)=坂越=と会員で元小学校長の若松繁之さん(81)=同=が中心となって今年1月から再建。埋もれていた拝石を掘り起こし、神器を置く台や神燈を吊るす提灯台は若松さんが手作りした。
神事後に顕彰会の来歴を説明した若松さんは「復元した遥拝所を末永く受け継いで」と呼びかけ。6年後には船岡園開設100周年を迎えるといい、春野さんは「盛大な記念行事を催せるように節目の年へ向けて盛り上げていきたい」と話していた。
高徳は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武士。生涯かけて後醍醐天皇に忠勤を尽くし、数々の武勇伝が伝えられている。 妙見寺の伊藤昶淳住職(83)の調査研究によると、北朝軍との戦いで重傷を負った高徳は正平16年(1361)から同寺に4年間仮住まいし、20年5月13日に亡くなった。7層の石塔からなる墓の形状は「臣下の墓として最も格式の高い様式」だという。 明治36年に政府から「従三位」が贈られ、戦前生まれの世代には新田義貞、楠正成などと並んで国民的英雄として名高い。
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