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吉良上野介の書状4通発見

2012年12月07日

  • 延宝2年に書かれたとみられる吉良上野介義央の書状

    延宝2年に書かれたとみられる吉良上野介義央の書状

 元禄赤穂事件で赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介義央(1641−1702)の書状4通が京都市下京区の本願寺史料研究所で見つかり、このほど発表された。義央の祖父・義弥、父・義冬の書状も1通ずつ確認。「吉良家3代の書状がそろうのは大変珍しい」(同研究所)という。
 発表によれば、これらの書状は今年8月、同研究所の史料約20万点の中から見つかった。義央の書状はいずれも西本願寺宛ての礼状。うち1通は、長女の鶴姫と薩摩藩主・島津綱貴の婚姻が幕府から許されたことに祝儀を贈った第14代寂如宗主への返礼で、延宝2年(1674)に書かれたとみられる。
 義冬の書状は、寂如宗主から4代将軍家綱への贈答品を義央が披露したことを伝える文面。また、義弥の書状は自筆で、3代将軍家光の乳母として権力を誇った春日局からの頼まれ事を同寺へ取り次ぐ内容だった。
 吉良家は幕府の儀式・典礼を司る「高家」。今回見つかった書状からも幕府と門跡寺院の間を取り持つ役割を果たしていたことがうかがえる。同研究所の大喜直彦・上級研究員は「近世史研究の有益な新史料」と位置付け、吉良町がある西尾市教委の三田敦司学芸員は「高家としての吉良家の事蹟の一端を示しており興味深い」と話している。
 見つかった書状は12月8日(土)から来年1月27日(日)まで京都市下京区の「龍谷ミュージアム」で展示される。月曜と年末年始は休館。Tel075・351・2500


文化・歴史 ]

掲載紙面(PDF):

2012年12月8日(2017号)4面 (9,167,275byte)


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コメント

この時代の書物が完全な形で残っていることに感動します。
書の心得がないので、書かれている文字を文章として読み取ることは私には
できませんが、昔の人は達筆であったんだという感心します。

このような書や史料から史実が明らかになっていくんでしょうね。

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投稿:歴史は良くわからないけど。 2012年12月07日


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