2015年02月07日
赤高の臨時コーチだった渾大防順造(右)。左は関学大野球部で一年先輩だった監督の黒田治夫=木村國勇氏提供
「サインを出していたのはコンタイボウさんですよ」と塩崎は言う。
渾大防順造。5年前の春の全国選抜大会で芦屋が準優勝したときの外野手。1年生からレギュラーを張り、春夏合わせて3度の甲子園出場を経験した。当時はまだ大学4回生だったが、夏休みを利用して大会前から関学大野球部の一年先輩にあたる黒田監督の実家に住み込み、臨時コーチとして赤高ナインを指導していた。
芦屋は渾大防が卒業した後も昭和26年から前年まで夏の兵庫大会を3連覇。全国トップレベルを誇った兵庫の高校野球界をリードする存在だった。その「芦屋野球」を熟知していたと思われる渾大防が“優勝請負人”として大会中もベンチに入っていたのだ。
鳴尾からホームスチールで1点を奪った場面。3塁走者が俊足の中村で、相手投手は3塁走者に背を向けて投球を開始するサウスポー、バッターは捕手からランナーが見えにくい右打者、そして、味方さえ「まさか」と思った意外性。周囲には“奇襲”と見えた作戦だが、渾大防は戦況を見つめた上で得点できる可能性が最も高いと判断したのではないか。
この1点を契機にゲームは大きく動いた。(文中敬称略)
[ 赤高ナイン熱戦譜 ]
掲載紙面(PDF):
2015年2月7日(2122号)3面 (13,281,850byte)
コメント
昔は、心身タフな人が、多かった様な気がします。心身タフな人が、増えるといいですね。
投稿:心身タフ 2015年02月11日
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