2015年04月11日
『兵庫県立赤穂高等学校野球部60年史』によれば、元陸軍少将の武川壽輔を初代校長に迎えて旧制赤穂中が開学した昭和2年の時点では、「学校設立の趣旨に反する」として野球部の設立は認められず、野球をやりたい生徒同士がキャッチボールをする程度だったという。
しかし、生徒たちの粘り強い要望に学校側が根負けし、昭和5年春に「同好会として認める」と年間50円の部費がついた。ボール1個1円50銭の時代である。
夏の兵庫大会には翌6年から出場したが3年続けて1回戦敗退。いずれの試合も1点も取れずに二桁失点でコールド負けを喫した。同9年からは、なぜか大会には出場していない。そのまま戦争による大会休止を迎えた。
学校のグランドに再び球音が戻ったのは21年春。元野球部長の有田隆夫は『60年史』に次のように書いている。
「赤穂城本丸の中にあった旧赤中のグランドは敗戦後もグランドの半分は畑のままであった。夏になれば南瓜の黄色の花が咲き、さつまいものつるが伸びていた。しかし生徒たちはボールやミットを持ち寄り昼休みや放課後にキャッチボールをしていた」
生徒らは石ころが転がる運動場を自分たちで整備した。天守台があるグランド南東寄りにホームベースを置き、桃井製網からもらってきた漁網と竹ざお2本で簡易なバックネットを立てた。秋が深まるころには練習らしくなってきたようで、赤高は22年夏、14年ぶりに県大会に参戦した。(文中敬称略)
[ 赤高ナイン熱戦譜 ]
掲載紙面(PDF):
2015年4月11日(2131号)4面 (10,696,364byte)
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