山鹿素行のお話(2)山鹿素行先生の生い立ち
2019年07月20日
読者から提供された福田眉仙画「山鹿素行肖像」
生家は会津若松城の近くにあった当時藩を治めていた蒲生家の重臣町野長門守の邸内にあり、その屋敷はもともと上杉景勝の家臣直江兼続(平成9年のNHK大河ドラマ天地人の主人公で兜に「愛」を掲げ出陣したことで有名)が住まいとしていた由緒正しいものです。
これだけの家に住んでいたという事は、父が伊勢国関谷亀山を治めていた関一政に仕えた武士ということと、妻が徳川家の重臣で武名の高い井伊直政の甥岡備後守の娘妙智という家柄の良さがあってのことだろうと推察されます。
山鹿素行は、赤穂へ流された時に書いた「配所残筆」にあるように、父親の英才教育を早くから受けており、4、5歳には漢字を完全にマスターしていたと思われます。その才能が一気に開花するのは、父親が仕えていた蒲生家の断絶の余波から父親が失職して江戸に転居してからでした。
医学の心得があった父親は医者となり身を立てて行きましたが、素行への教育は相変わらず熱心で、親類同様の付き合いをしていた町野幸和の妻祖心尼が、時の将軍家光の乳母春日局の義姪と知るや、そこを頼りに将軍家に学問を教える役目をしていた儒学者林羅山の上野にある学問所に通わせることになります。そうして素行は11歳頃までには四書・五経その他の文書を正しく読めるようになり、たちまちその噂は江戸中に広まり、ある日素行は松江藩堀尾忠晴の家に招かれ、そこで儒学書を読んで聞かせると、大人でも得がたい二百石の禄高で召し抱えたいと申し込まれるほどの才覚の持ち主となって行きます。
その素行が11歳になった寛永9年(1632年)の正月に、初めて作った詩が残っているので紹介します。
「一様の東風太平の曲/浪花の鶯舌舜薫の絃」
中国の舜帝が五絃を作って天下太平の南風を歌うという意味だそうです。
ところで、先回に山鹿素行に関する資料提供のお願いを呼び掛けたところ、複数の方からご連絡をいただきまして誠にありがとうございました。写真はその一つで相生出身の日本画家、福田眉仙が描いた山鹿素行の肖像画です。やや若い頃か凛とした表情が伝わる秀作だと思います。引き続きご協力をお待ち申し上げます。
* * *
前回掲載した連絡先電話番号に誤りがありました。正しくはTEL090・1445・5186(東條)です。よろしくお願いします。
<前の記事 |
掲載紙面(PDF):
2019年7月20日号(2333号) 4面 (9,976,627byte)
(PDFファイルを閲覧するにはこちらからAdobe Readerを入手してください。)
[ 文化・歴史 ]
駅コンコースに“忠臣蔵絵巻” 筆一筋に人生境地の94歳 [ 文化・歴史 ] 2012年11月23日パッチワークキルト作品展 [ 文化・歴史 ] 2012年11月23日“最古”の内蔵助肖像画 [ 文化・歴史 ] 2012年11月22日豊原国周の義士浮世絵展 [ 文化・歴史 ] 2012年11月22日神戸の風景画など小品展 [ 文化・歴史 ] 2012年11月20日7歳と5歳の兄弟 民謡初舞台 古墳中期の勾玉など発掘速報展 [ 文化・歴史 ] 2012年11月17日元禄赤穂事件の英訳本発刊 [ 文化・歴史 ] 2012年11月17日作業学習に「赤穂緞通」導入 [ 文化・歴史 ] 2012年11月10日播磨と備前 国境石探訪ツアー 船檀尻が64年ぶりの海上公演 写真で辿る相生の変遷 [ 文化・歴史 ] 2012年11月03日「白いチョークの会」会員展 [ 文化・歴史 ] 2012年11月02日坂越で3日、船檀尻の復活公演
コメントを書く