東有年に前方後円墳 赤穂で初
2017年12月16日
赤穂初となる前方後円墳が確認された放亀山古墳群の地図
前方後円墳は地域で最も有力な首長や権力者が埋葬された古墳形式とされ、市教委は「前方後円墳があることは、そこに周辺地域を治める『王』のような人物が存在したことを示すもの」とし、「赤穂市の古墳時代の歴史を考える上で非常に重要」と発見を重要視している。
放亀山古墳群は大鷹山(標高201メートル)から東へ続く尾根が千種川西岸に達するあたりにあり、昭和40年代の調査で尾根上に4基、南斜面中腹に1基の計5基が確認されていた。いずれも円墳と思われていたが、市教委が平成25年度から実施している埋蔵文化財分布調査で、そのうちの1基が全長約40メートルの前方後円墳であることが明らかになった。
『世界大百科事典』(平凡社)によると、前方後円墳は3世紀末から4世紀初頭までに出現し、6世紀末ごろまで畿内を中心に日本列島のほぼ全域で築造された。前期は丘陵上や台地の縁辺部に立地するものが多く、中期になると低段丘や平地での築造が増え、巨大化が進行。高水準の土木技術によって強い企画性をもって築かれたとみられる場合が多く、最高位の墳丘形式として大王をはじめ各地域の首長などに盛んに用いられた。千種川流域では、これまでに佐用町と上郡町で計5基の前方後円墳(前方後方墳を含む)が見つかっている。
昭和56年に刊行された『赤穂市史』第1巻では、放亀山古墳群の中で最も規模の大きい1号墳について、津村古墳や蟻無山1号墳などとともに「首長権力の象徴であり、共同体の守護神として祀られたもの」と断定しており、今回の発見はその説を補強したといえる。
一方で、「古墳時代中期になると前方後円墳が突然見られなくなる西播磨地域での位置付けや周辺古墳との関わりなど、今後明らかにしなければならない新たな謎が生まれた」(市教委)との面もあり、「赤穂の古墳時代史、ひいては播磨地域や日本の古墳時代史を考える上で非常に重要な古墳となることは間違いないだろう」と意義を強調している。
<前の記事 |
掲載紙面(PDF):
2017年12月16日(2258号) 1面 (12,063,155byte)
(PDFファイルを閲覧するにはこちらからAdobe Readerを入手してください。)
上郡町書道会 第10回会員展 [ 文化・歴史 ] 2009年03月07日メイプル写友会 13日から会員展 [ 文化・歴史 ] 2009年03月06日民俗資料館でおひなさま展 [ 文化・歴史 ] 2009年03月05日特別支援学校の児童生徒作品展 [ 文化・歴史 ] 2009年03月04日絵マップ全国展優秀作品を展示 美術家連合会が第1回会員展 [ 文化・歴史 ] 2009年03月02日歌舞伎にみる忠臣蔵を講演 [ 文化・歴史 ] 2009年03月02日6日から第21回女・女・女展 [ 文化・歴史 ] 2009年03月02日アマチュアが楽器演奏、舞踊など発表 [ 文化・歴史 ] 2009年03月01日堀田品子さんに県こうのとり賞 義士木像の修復調査 ボランティア募集 第44回県書道展、赤穂から17人入賞 [ 文化・歴史 ] 2009年02月25日関福大吹奏楽部 第7回しおかぜコンサート [ 文化・歴史 ] 2009年02月23日市児童合唱団がオリジナル歌曲集 [ 文化・歴史 ] 2009年02月20日衣装で先生の迫力アップ!? 城西小で能楽鑑賞会
コメントを書く