赤穂で終戦迎えた「最後の少年高射兵」
2010年09月04日
出征日の新川辰郎さん=左から2人目=。昭和20年3月29日撮影
同校は陸軍防空学校として千葉市内に昭和13年創設。新川さんは14歳だった20年4月、浜松分教所へ同期190人で入学した。
手記とともに届いた資料によると、連日に及ぶB29の爆撃で入校2カ月後には兵舎が焼失。3期生、特別幹部候補生とともに静岡県内へ移駐した後、8月8日に出身地別の東西2班に分けられた。行き先を告げられずに乗り込んだ軍用列車が翌日到着したのが赤穂鉄道の播州赤穂駅(現ウエスト神姫赤穂営業所)だった。
完全武装で隊列を組んで行進。大手門から城内へ入り、大石邸長屋門を右手に見ながら本丸跡にあった赤穂中の校舎へ。校内に生徒の姿は見えず、壁際に机を寄せ積んだ教室に宿舎を設営した。
「おまえたちには時間がないのだ、と教官に厳しく指導されました」。昼は実技教練、夜は三角関数や確率など攻撃に必要な知識を詰め込まれる毎日だった。4期生の入学前に繰り上げ卒業となり、新川さんらに軍服や装備品を残していった2期生の多くは南方戦線への輸送中に撃沈された。
後発の列車で届く物資の運搬がまだ終わっていなかった6日後、非常呼集がかかった。校庭に響いたラジオは音質が悪くてよく聞き取れなかったが、日本が負けたことは理解できた。上官の命令で名簿などの書類をほぼすべて焼却し、8月31日に復員。新川さんら4期生は「最後の少年高射隊」となった。
「もし戦争がもう一年続いていたら、われわれもどうなっていたか」。わずか5カ月間しか存在せず、軍歴にも残らなかった“幻の少年高射兵”の記録を留めようと、同期の仲間と資料収集に努めてきた。昨夏の赤穂市非核平和展で、部隊解散時の残務整理書類など市所蔵の史料が展示されたことを本紙ホームページで知り、本紙へ手記と資料を送ってくれた。
戦後に2度来穂したが、駐留した校舎はすでに取り壊された後だった。「史料が残っているのなら、もう一度赤穂を訪れてみたい」と話している。
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掲載紙面(PDF):
2010年9月4日(1910号) 4面 (10,110,203byte)
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