戦後七十年・語り継ぐ(1)〜父が遺した兄の戦時記録
2015年07月11日
出征前に撮影された尾崎幸夫さんの遺影
昭和18年に15歳年上の兄・幸夫が戦死しました。9人きょうだいの長男で23歳でした。
兄は私が6歳の時に呉海兵団に入団し、そのまま赤穂に帰省したことはなかったので、私は残念ながら兄の面影すら覚えていません。後に、兄の友だちから「ゆきさんはええ男やった」と聞いたくらいの思い出しかありません。
兄についての資料は何もありませんが唯一残っているのは、今は亡き父の鹿之助が書き残した一枚のメモです。
メモは「幸夫記録」の書き出しで海兵団入団から大分の海軍航空隊入隊、横須賀への転任など兄の略歴を記しています。入団の年を実際よりも一年早く書いており、おそらく、兄が亡くなって何年か経った後に父が記憶をたどって書いたものだと思います。
兄は粟田丸という船の乗組員でした。「潜水艦をやっつける船やぞ」と父からよく聞かされました。メモによれば、アリューシャン方面から南方方面へ転戦したとあります。
父は母・たつのと一緒に兄のところへ何度か面会に訪れていました。メモにも「大分ヘ面會外出許可サレ別府オン泉ニ行キ食事ヲセリ」「十八年四月二十日 横須賀ヘ面會東京ニ同行」という記述があります。その東京への小旅行が親子の別れになりました。
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明治初期から太平洋戦争終結までのアジア関係資料約190万件を公開している「アジア歴史資料センター」所蔵の資料によれば、粟田丸は昭和18年10月22日午前3時48分、上海からラバウルへ陸軍の人員1100名、弾薬・食糧・兵器など3700立方メートルを輸送中、北緯26度49分、東経125度03分の海域で敵潜水艦の魚雷4本を受けて沈没。生存者は海軍88名、陸軍76名だった。
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父のメモは「九月台ワン沖ニテ」と書いた行で終わっています。兄の戸籍には、「昭和十九年二月十日時刻不詳、台湾方面ニテ戦死」と記載されており、これも実際に戦死した日とは異なります。父は自分の息子の命日も正確に知らないまま他界したのでしょう。当時はこうしたことが少なくなかったのだと思いますが、本当に悲しいことです。
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掲載紙面(PDF):
2015年7月11日(2143号) 1面 (12,666,009byte)
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投稿:十平次 2016年01月27日コメントを書く