戦後七十年・語り継ぐ(7)〜無理な戦争の副産物
2015年08月29日
戦時中に高取峠トンネルに隠されていた爆薬のドラム缶
戦争で親や子、きょうだいを失った人に比べたら、私の体験なんかまったく軽いもんですけど、取材をということですんで、お話ししましょう。
私は坂越で生まれ育ちました。あれは確か小学2年のときやったでしょうか、終戦の翌年、昭和21年の夏やったと思います。国鉄の赤穂線はまだ走ってなかったですが、高取峠のトンネルは出来とって、そこに日本軍が火薬を貯蔵しとったんです。で、戦争が終わって、進駐軍が回収に来た。火薬使うて暴動でも起こされたらかなわん、いうことでしょうな。
火薬はミカン箱くらいの木箱に入っとってね。それをトラックに積んで千種川の河原に運び出して、火で焚いて処分するんです。JRの鉄橋の少し上流側。高野の河原のあたり。進駐軍から手間賃もろた地元の大人らが作業して、進駐軍はそれを監視するだけ。進駐軍ですか? 映画やドラマに出てくるとおりですよ。カーキ色の軍服で鉄かぶとをかぶっとりましたな。
火薬の量が多いから、何日かに分けてやっとったと思います。「花火みたいでおもろいで」と評判を聞きまして、近所の遊び仲間3〜4人で見物に行ったんです。木箱は河原に10箱か20箱か並んどって、私らは、そうですね、50メートルほど離れたとこにおったと思います。
どうやって着火したんかは覚えとりませんが、大人らが「逃げえ、逃げえ!」言うんで、あわてて逃げました。そのとき、頭の後ろになんか痛みを感じました。
自分では何が起こったか分かりませんでした。まんの悪いことに火薬の熱線が当たったんですね。半ズボンをはいとったんで、ふくらはぎも火傷して水ぶくれが出来ました。足は大したことなかったけど、頭は毛根までやられましてね。今でも後頭部には、ほとんど毛がありません。
後から聞いた話ですけど、赤穂線はトンネルも鉄橋の土台も出来とったのに、レールにする鉄が戦争で不足しとったから開通できへんかったらしいです。もし、汽車が通っとったら、火薬の貯蔵庫にはならず、私の火傷もなかったかも知れません。
ともかく、レールも敷けんほど物資がないような状態やったんですから、ひどい戦争やったいうことですわな。私の後頭部のはげは、無理な戦争の副産物です。
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GHQによる弾薬処分は奥藤さんの他にも記憶している人があった。そのうちの一人、坂越の鳥井廣夫さん(80)は爆薬が入っていたと思われるドラム缶を保管していた。鳥井さんは現場には行かなかったが、誰かから缶を譲ってもらったのだという。
高さ約68センチ、直径約35センチ。長年、物置でゴルフクラブを立てるケースに使われていたといい、経年で表面はさびついていた。
何か文字は書かれていないだろうか、ということになり、鳥井さんと記者が缶を逆さにして、今まで底になっていた方のふたを紙ヤスリでゴシゴシ磨いた。すると、「GTN」「50KG」というアルファベットや数字が見えてきた。
GTNはダイナマイトの原料となる「ニトログリセリン」の略号。つまり、このドラム缶には液状のニトログリセリンが50キログラム分入っていたのだろう。
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掲載紙面(PDF):
2015年8月29日(2150号) 4面 (10,830,156byte)
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