戦後七十年・語り継ぐ(3)〜坂越沖に沈んだ「せりあ丸」
2015年08月01日
せりあ丸が空襲を受けて沈没したときの光景を描いた鳥井廣夫さんのスケッチ
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◇生島よりも高い火柱
「強い雨が叩きつけたら、水面にしぶきが上がるでしょ。ちょうどそんな感じですよ」と語るのは当時坂越国民学校の初等科6年生だった加藤利昭さん(82)=加里屋=。木村製薬所(現アース製薬)の南側に自宅があり、同社の蚊取り線香を乾燥させるための物干し場に隠れて爆撃の様子を見ていた。せりあ丸からは南西約1キロの位置だ。
加藤さんの話では、この日の午後、家島の方角から戦闘機が2〜3機飛来し、生島近くに停泊していたせりあ丸を襲った。冒頭の言葉は戦闘機の機銃掃射が海面に当たったときの様子だ。船の上を通過した戦闘機は宝珠山上空へと旋回して体勢を立て直すと再び船へ向かって高度を下げて爆撃する動きで繰り返し攻撃を仕掛けたという。
加藤さんと同級生の粟井鐵芳さん(83)=坂越=は船から北約1キロの汐見地区から同じ場面を見ていた。
「アメリカは爆撃が下手くそで当たらない−とか聞いておりましたが、そんなことはなかった。効率良く旋回して、実に適確でした」
粟井さん宅から東へ約120メートルに自宅がある鳥井廣夫さん(80)も目撃者の一人。画家でもある鳥井さんはその時の光景を4枚のスケッチに描いてくれた。
「山の方から船に向かう戦闘機がね、うちの家の真上を通って急降下していって。まるで屋根の上ぎりぎりを通っていく感じでした。船も機銃みたいなので『パリパリパリ』と一応は反撃してましたけど、効かんようでした」
鳥井さんの記憶では、戦闘機は午前と午後に分けて2回やって来たという。
「家におった10歳上の姉が、『あんたは奥におり!』言うけど、気になりますわね。結局、家の窓から姉と並んで見てました。午後の攻撃で戦闘機が船の上で急旋回した直後に船からボッと火柱が上がって。そのときは断末魔のような、ものすごい音がしました」
加藤さんは火柱について「生島を超えるくらいの高さ」まで上がったと記憶している。せりあ丸は真っ黒な煙をもうもうと出し、船尾から沈没。火は一晩中燃え続けた。「炎を目標に夜襲があるかも知れない」と、多くの住民が裏山や谷に避難して一夜を明かしたという。
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◇3度生還「ツキのある船」
せりあ丸は昭和19年6月30日、三菱重工長崎造船所で第二次戦時標準船(戦標船)として竣工した。総トン数1万0238トン、全長149・76メートル、速力13ノット。船名はブルネイの石油産出地・セリアから付けられた。竣工してすぐ、戦時海運管理令に基づき設立されていた海運統制組織「船舶運営会」の使用船に登録された。
「戦標船」とは、戦時下に国家の統一規格で建造された船舶だ。戦後の使用まで視野に入れて設計・建造された第一次戦標船と異なり、戦局悪化で失った船腹不足を急いで補おうと昭和17年から作られた第二次戦標船は資材節約と工期短縮に重きを置き、性能や構造などは大幅に簡易化された。
材料の鋼板は板厚を減らし、本来は二重構造の船底は一枚鋼板になった。座礁しただけで大破沈没したケースもあったほか、そもそもまともに動けず出航できないまま終わった船もあったという。
せりあ丸は19年7月から20年2月までの約半年間で3度シンガポールへ出航し、いずれも貴重な石油を本土に持ち帰った。
制空権、制海権ともすでに連合国軍側に握られていた南方海域へ向かうのは事実上の「特攻」で、ほとんどの輸送船が潜水艦による魚雷と艦載機による空爆で悲惨な最期を遂げていた。
そのような状況下で3度も生還したのは奇跡としか言いようがない。また、一緒に船団を組んだ船も被害に遭わなかったことから、せりあ丸は「ツキのある船」と言われた。
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◇機関室に致命傷
3度目の生還を果たしたせりあ丸は持ち帰った航空機用ガソリン1万7000トンを和歌山県下津港に陸揚げし、軍部から武功旗を贈られた。
修理を待って再び南方行きを命じられるところだったが、沖縄以南への航行はもはや不可能な戦況。油輸送の役目を失ったせりあ丸は相生の播磨造船所で貨物船に改造されることになり、坂越湾で碇泊していた。そこを米海軍機動部隊に襲撃されたのだった。
20年7月28日午前5時30分ごろから始まった波状攻撃で、せりあ丸は船尾楼左舷に爆弾1発を受けて付近を大破した。船首に高角砲2門、船橋と船尾に機関銃16基を兵装していたが、それらを扱うはずの軍人は坂越に来る前に神戸で下船していたため、使いこなすことはできなかったと思われる。
そして午後1時20分、機関室上部に命中した2発が致命傷となり、せりあ丸は火炎に包まれながら沈没した。
この空襲で乗組員48人のうち一等機関士や甲板員、調理員など6人が犠牲になった。戦後50年の平成7年にせりあ丸について聞き取り調査した粟井ミドリさん=市文化財保護審議委員=によると、けが人をボートで東の浜にあげ、当時汐見にあった西本医院で治療したという。
米軍は同日午前7時10分と午後0時30分ごろ、グラマン約30機編隊で播磨造船所を空爆。250キロ爆弾と機銃掃射、無数の10キロ爆弾を投下し、39人の死者と多数の負傷者を出した。せりあ丸を攻撃したのも同じ部隊の一部だった可能性が高い。坂越小の学校沿革誌には「坂越上空敵機来襲シ爆弾投下、機銃掃射アリタルモ御真影、重要書類、並ニ校舎被害ナシ」と記述されている。
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◇石油運んで地球を15周
「学校の運動場(船岡園)から沈んだ船を毎日見てました。景色の一部になってましたね」と語るのは鳥井さんと同級生の佐方さよ子さん(79)。船首側を海面に突き出した姿勢で座州したせりあ丸は終戦後もそのまま放置されていた。生存者はしばらく坂越で下宿しており、そこで知り合った女性と結婚した乗組員もいたという。
坂越、尾崎、御崎の80代以上の人たちには、せりあ丸から漏れ出た油が沿岸に流れ着き、それをすくい集めてロウソクにして重宝したという思い出を語る人が少なくない。また、「夜になったら人魂が飛ぶ」という噂が立ったが、それは船内のめぼしい備品を漁りにきた者が照らす懐中電灯の明かりだったらしい。
せりあ丸はスクラップ化する目的で23年5月に引き揚げられた。しかし、船体を点検した結果、「修理可能」と判断され、日本油槽船と日本船舶公団の共有で再生が決定。現在のユニバーサル・スタジオ・ジャパンがある日立造船桜島工場で改造が行われ、船底は安全な二重構造に。油槽船にふさわしい堂々たる煙突も付いた。おまけに戦後の国内船舶では初めてとなる船室冷房も装備された。
縁起の良い船名をそのまま継承したせりあ丸は中東・バーレーンからの石油輸送に活躍。地球15周分に相当する60万キロを航行し、日本の戦後復興と高度成長に欠かせなかった資源を運び続けた。35年からはペルシャ湾で石油を貯蔵するステーションタンカーとなり、老朽化に伴って38年2月にシンガポールで解体された。波乱に満ちた18年8カ月だった。
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◇軍人よりも高かった戦死率
日本殉職船員顕彰会のまとめによると、昭和16年から20年に日本が戦争で失った商船(機帆船、漁船を除く)は2394隻で総トン数は802万トン。船とともに犠牲になった船員数は6万0609人に上る。軍人の死亡率が陸軍20%、海軍16%と言われる中、船員は43%と推計され、民間人をも巻き込む戦争の恐ろしさを浮き彫りにしている。
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◇あの夏から70年
名簿を手掛かりに当時の乗組員7人の連絡先が判明したが、いずれもすでに他界されたか転居先不明で話を聴くことは叶わなかった。せりあ丸が被爆してから70年。坂越の浜には、あの夏の戦闘が嘘のように穏やかな波が寄せては返している。
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◆参考文献と資料
○日本郵船『日本郵船戦時船史』(1971年)
○粟井ミドリ「セリヤ丸爆撃の思い出」(赤穂市立民俗資料館『戦後五十年記念 戦争体験・戦時生活体験記録文集』1995年)
○大西吉甫「『せりあ丸』のその後」(坂越公民館・坂越歴史研究会『ふるさとの歴史第22号』1998年)
○土井全二郎『撃沈された船員たちの記録』(光人社NF文庫、2008年)
○大内建二『戦う民間船』(光人社NF文庫、2006年)
○田中貞之助・日立造船設計部「油槽船せりあ丸の冷房装置について」(関西造船協会『会誌第70号』1951年)
○播磨造船所『播磨造船所50年史』(1960年)
○公益財団法人日本殉職船員顕彰会「太平洋戦争と戦没船員」
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掲載紙面(PDF):
2015年8月1日(2146号) 1面 (10,527,737byte)
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投稿:でんでん 2016年08月07日コメントを書く