赤穂の昔話・第23話「小倉御前の墓」
2021年01月30日
赤松則村の孫の子である赤松満祐は、嘉吉の乱を起こして、将軍足利義教を殺しました。その後細川・山名氏らに討伐されて、赤松満祐は自殺、家臣もばらばらになってしまいました。
一族の則繁は朝鮮に脱出して、清水将軍と名乗る、有名な海賊になりました。満祐の弟、彦五郎・彦三郎は、鹿久居島で赤松再興を計画しましたが、失敗に終わりました。
それから約十五年たって、満祐の弟、義雅の孫にあたる赤松政則は、残党を組織しなおして、赤松家の再興を計画しました。再興するためには、足利幕府に何か手柄をたてて、取りたててもらわなければなりません。考えたすえ、天皇のしるしである神璽(勾玉)を、吉野朝(南朝)の皇胤(天皇の血統をひく人)から奪って、北朝の天皇に献上することで、その手柄を認めてもらうことにしました。
長禄元年十二月二日、雪の降りしきる吉野に入り、その山中で、後亀山天皇の皇子、一の宮・二の宮を殺害して、神璽を奪い取りました。それから難波に出て、舟でひとまず坂越に引きあげてきました。そして、坂越から京都の足利幕府に、ことの次第を報告して、返事を待ちました。
政則は、坂越に滞在している何日間か、毎夜、毎夜、吉野の亡霊にうなされました。そこで政則は、その霊のたたりを鎮めるために、五輪の石塔を作って、手厚く供養しました。
吉野で殺された後亀山天皇の皇子、良泰親皇が、小倉御前と呼ばれていたところから、その石塔が、小倉御前の墓といわれるのです。
赤松氏は、この功績によって家を再興し、応仁の乱を利用して旧領を復興させることができました。(赤穂市教育委員会刊『赤穂の昔話 第二集』・「小倉御前の墓」より)=切り絵・村杉創夢
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掲載紙面(PDF):
2021年1月30日号(2402号) 4面 (8,157,171byte)
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